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集団的自衛権行使「安保法制懇」報告書







 はじめに

 2007年5月、安倍晋三内閣総理大臣は、「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」を設置した。これまで、政府は、わが国は国際連合憲章第51条および日米安全保障条約に明確に規定されている集団的自衛権を権利として有しているにもかかわらず、行使することはできないなどとしてきた。

 安倍総理が当時の懇談会に対し提示した「四つの類型」は、特に憲法解釈上大きな制約が存在し、適切な対応ができなければ、わが国の安全の維持、日米同盟の信頼性、国際の平和と安定のためのわが国の積極的な貢献を阻害し得るようなものであり、わが国を取り巻く安全保障環境の変化を踏まえ、従来の政府の憲法解釈が引き続き適切か否かを検討し、わが国が行使できない集団的自衛権等によって対応すべき事態が生じた場合に、わが国として効果的に対応するために取るべき措置とは何かという問題意識を投げかけるものであった。

 これら「四つの類型」は、

(1)公海における米艦の防護、
(2)米国に向かうかもしれない弾道ミサイルの迎撃、
(3)国際的な平和活動における武器使用、
(4)同じ国連平和維持活動(PKO)等に参加している他国の活動に対する後方支援について

であった。


 これを受け、当時の懇談会では、わが国をめぐる安全保障環境の下において、このような事態に有効に対処するためにはわが国は何をなすべきか、これまでの政府の憲法解釈を含む法解釈でかかる政策が実行できるか否か、いかなる制約があるか、またその法的問題を解決してわが国の安全を確保するにはいかなる方策があり得るかなどについて真摯に議論を行い、08年6月に報告書を提出した。

 報告書では、「四つの類型」に関する具体的な問題を取り上げ、これまでの政府の解釈をそのまま踏襲することでは、今日の安全保障環境の下で生起する重要な問題に適切に対処することは困難となってきており、自衛隊法等の現行法上認められている個別的自衛権や警察権の行使等では対処し得ない場合があり、集団的自衛権の行使および集団安全保障措置への参加を認めるよう、憲法解釈を変更すべきであるなどの結論に至った。具体的には、4類型の各問題について以下のように提言を行った。


 (1)公海における米艦の防護については、日米が共同で活動している際に米艦に危険が及んだ場合これを防護し得るようにすることは、同盟国相互の信頼関係の維持・強化のために不可欠である。個別的自衛権および自己の防護や自衛隊法第95条に基づく武器等の防護により反射的効果として米艦の防護が可能であるというこれまでの憲法解釈および現行法の規定では、自衛隊は極めて例外的な場合にしか米艦を防護できず、また、対艦ミサイル攻撃の現実にも対処することができない。よって、このような場合に備えて、集団的自衛権の行使を認めておく必要がある。


 (2)米国に向かうかもしれない弾道ミサイルの迎撃についても、従来の自衛権概念や国内手続きを前提としていては十分に実効的な対応ができない。米国に向かう弾道ミサイルをわが国が撃ち落とす能力を有するにもかかわらず撃ち落とさないことは、わが国の安全保障の基盤たる日米同盟を根幹から揺るがすことになるので、絶対に避けなければならない。この問題は、個別的自衛権や警察権によって対応するという従来の考え方では解決し得ない。よって、この場合も集団的自衛権の行使によらざるを得ない。


 (3)PKO等の国際的な平和活動への参加は、憲法第9条で禁止されないと整理すべきであり、自己防護に加えて、同じ活動に参加している他国の部隊や要員への駆け付け警護および任務遂行のための武器使用を認めることとすべきである。


 (4)同じPKO等に参加している他国の活動に対する後方支援については、これまでの「武力の行使との一体化論」をやめ、政策的妥当性の問題として検討すべきである。


 以上の提言には、わが国による集団的自衛権の行使および国連の集団安全保障措置への参加を認めるよう、憲法解釈を変更することが含まれていたが、これらの解釈の変更は、政府が適切な形で新しい解釈を明らかにすることによって可能であり、憲法改正を必要とするものではないとした。


 わが国を取り巻く安全保障環境は、前回の報告書提出以降わずか数年の間に一層大きく変化した。北朝鮮におけるミサイルおよび核開発や拡散の動きは止まらず、さらに、特筆すべきは、地球的規模のパワーシフトが顕著となり、わが国周辺の東シナ海や南シナ海の情勢も変化してきていることである。このような中で、国際社会における平和の維持と構築におけるわが国の安全保障政策の在り方をますます真剣に考えなくてはならない状況となっている。また、アジア太平洋地域の安定と繁栄の要である日米同盟の責任も、さらに重みを増している。


 このような情勢の変化を踏まえて、安倍総理は、13年2月、本懇談会を再開し、わが国の平和と安全を維持するために、日米安全保障体制の最も効果的な運用を含めて、わが国は何をなすべきか、過去4年半の変化を念頭に置き、また将来見通し得る安全保障環境の変化にも留意して、安全保障の法的基盤について再度検討するよう指示した。


 その際、08年の報告書の4類型に限られることなく、上記以外の行為についても、新たな環境の下でわが国が対応する必要性が生じることを確認しつつ、わが国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために取るべき具体的行動、あるべき憲法解釈の背景となる考え方、あるべき憲法解釈の内容、国内法制の在り方についても検討を行うこととなった。


 以上を踏まえ、本報告書においては、以下、Ⅰにおいて、まず政府の憲法解釈の変遷を概観した後、憲法第9条の解釈に係る日本国憲法の根本原則は何であるかを明確にし、わが国を取り巻く安全保障環境にどのような変化があったのかを検討し、従来の憲法解釈や法制度では十分に対応することができないと考えられる具体的な事例を示す。

 その上で、Ⅱにおいて、わが国の平和と安全を維持し地域および国際社会の平和と安定を実現していく上であるべき憲法解釈を提示する。さらに、Ⅲにおいてこれを踏まえた国内法の整備等を進めるに当たって考えるべき主な要素について提言することとする。




 Ⅰ、憲法解釈の現状と問題点

 1、憲法解釈の変遷と根本原則

 (1)憲法解釈の変遷

 あるべき憲法解釈について論じる前に、まず、憲法第9条をめぐる憲法解釈は、国際情勢の変化の中で、戦後一貫していたわけではないということを見ていく必要がある。


 1946年6月、当時の吉田茂内閣総理大臣は、新憲法を審議し制定した旧憲法下の帝国議会において、「自衛権ニ付テノ御尋ネデアリマス、戦争抛棄ニ関スル本案ノ規定ハ、直接ニハ自衛権ヲ否定ハシテ居リマセヌガ、第九条第二項ニ於テ一切ノ軍備ト国ノ交戦権ヲ認メナイ結果、自衛権ノ発動トシテノ戦争モ、又交戦権モ抛棄シタモノデアリマス」と述べた。(衆院本会議(46年6月26日))。

 また、同年吉田総理は、「國際聯合に日本が獨立國として加入致しました場合に於ては、一應此の憲章に依つて保護せられる」と述べており、このような帝国議会における議論を見れば、日本国憲法が制定された当時、少なくとも観念的にはわが国の安全を1年前の45年に成立したばかりの国連の集団安全保障体制に委ねることを想定していたと考えられる。


 しかし、その後、このような考え方は大きく変化した。すなわち、冷戦の進行が始まり、国連は想定されたようには機能せず、50年6月には朝鮮戦争が勃発し、52年4月にわが国が主権を回復し、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(旧・日米安全保障条約)を締結し、54年7月に自衛隊が創設されたが、54年12月、大村清一防衛庁長官は、「憲法は戦争を放棄したが、自衛のための抗争は放棄していない。(略)他国から武力攻撃があつた場合に、武力攻撃そのものを阻止することは、自己防衛そのものであつて、国際紛争を解決することとは本質が違う。従つて自国に対して武力攻撃が加えられた場合に、国土を防衛する手段として武力を行使することは、憲法に違反しない。(略)自衛隊のような自衛のための任務を有し、かつその目的のため必要相当な範囲の実力部隊を設けることは、何ら憲法に違反するものではない」と答弁し、憲法解釈を大きく変えた(衆院予算委員会(54年12月22日))。


 また、最高裁判所は、59年12月のいわゆる砂川事件大法廷判決において、「同条(引用注・憲法第9条)は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。憲法前文にも明らかなように、われら日本国民は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめている国際社会において、名誉ある地位を占めることを願い、全世界の国民と共にひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認するのである。しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない」という法律判断を示したことは特筆すべきである。

 この砂川事件大法廷判決は、憲法第9条によって自衛権は否定されておらず、わが国が自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置を取り得ることは国家固有の権利の行使として当然であるとの判断を、司法府が初めて示したものとして大きな意義を持つものである。さらに、同判決が、わが国が持つ固有の自衛権について集団的自衛権と個別的自衛権とを区別して論じておらず、したがって集団的自衛権の行使を禁じていない点にも留意すべきである。


 一方、集団的自衛権の議論が出始めたのは、60年の日米安全保障条約改定当時からである。当初は、同年3月の参院予算委員会で当時の岸信介内閣総理大臣が、「特別に密接な関係にある国が武力攻撃をされた場合に、その国まで出かけて行ってその国を防衛するという意味における私は集団的自衛権は、日本の憲法上は、日本は持っていない」、「集団的自衛権という内容が最も典型的なものは、他国に行ってこれを守るということでございますけれども、それに尽きるものではないとわれわれは考えておるのであります。そういう意味において一切の集団的自衛権を持たない、こう憲法上持たないということは私は言い過ぎだと、かように考えております」と答弁しているように、海外派兵の禁止という文脈で議論されていた。それがやがて集団的自衛権一般の禁止へと進んでいった。


 政府は、憲法前文および同第13条の双方に言及しつつ、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置を取ることができることを明らかにする一方、そのような措置は必要最小限度の範囲にとどまるべきものであり、集団的自衛権の行使は憲法上許されないとの見解を示すに至った。すなわち、72年10月に参院決算委員会に提出した資料において、「憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において『全世界の国民が・・・平和のうちに生存する権利を有する』ことを確認し、また、第13条において『生命、自由および幸福追求に対する国民の権利については、・・・国政の上で、最大の尊重を必要とする』旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであって、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない」とした。

 続けて、同資料は、「しかしながら、だからといって、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである」とし、さらに、「そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない」として、集団的自衛権の行使は憲法上許されないとの見解を示した。


 同様に、政府は、81年5月、質問主意書に対する答弁書において、「わが国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然であるが、憲法第九条の下において許容されている自衛権の行使は、わが国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであつて、憲法上許されないと考えている」との見解を示した。

 加えて、同答弁書は、「集団的自衛権の行使が憲法上許されないことによつて不利益が生じるというようなものではない」とした。集団的自衛権の行使は憲法上一切許されないという政府の憲法解釈は、今日に至るまで変更されていない。

 そもそも、いかなる組織も、その基本的な使命達成のために、自らのアイデンティティーを失うことのない範囲で、外界の変化に応じて自己変容を遂げていかなければならない。そうできない組織は、衰退せざるを得ないし、やがて滅亡に至るかもしれない。国家においても、それは同様である。国家の使命の最大のものは、国民の安全を守ることである。

 その目的のために、外界の変化に対応して、基本ルールの範囲の中で、自己変容を遂げなければならない。さらに言えば、ある時点の特定の状況の下で示された憲法論が固定化され、安全保障環境の大きな変化にかかわらず、その憲法論の下で安全保障政策が硬直化するようでは、憲法論のゆえに国民の安全が害されることになりかねない。それは主権者たる国民を守るために国民自身が憲法を制定するという立憲主義の根幹に対する背理である。

 軍事技術が急速に進歩し、また、周辺に強大な軍事力が存在する中、わが国を取り巻く安全保障環境がますます厳しさを増している中で、将来にわたる国際環境や軍事技術の変化を見通した上で、わが国が本当に必要最小限度の範囲として個別的自衛権だけで国民の生存を守り国家の存立を全うすることができるのか、という点についての論証はなされてこなかった点に留意が必要である。

 また、個別的自衛権と集団的自衛権を明確に切り分け、個別的自衛権のみが憲法上許容されるという文理解釈上の根拠は何も示されていない。この点については、「Ⅱ、あるべき憲法解釈」の章で再び取り上げる。

 また、国連等が行う国際的な平和活動への参加については、60年代には、内閣法制局は、わが国が正規の国連軍に対して武力行使を含む部隊を提供することは憲法上問題ないと判断していたが、その後、たとえば稲葉誠一衆院議員提出質問主意書に対する答弁書(80年10月28日)において、「・・・いわゆる「国連軍」(引用注・国連がその「平和維持活動」として編成したいわゆる「国連軍」)は、個々の事例によりその目的・任務が異なるので、それへの参加の可否を一律に論ずることはできないが、当該「国連軍」の目的・任務が武力行使を伴うものであれば、自衛隊がこれに参加することは憲法上許されないと考えている」とされ、また、88年5月14日の衆院安全保障委員会において秋山收内閣法制局第一部長が「もとより集団的安全保障あるいはPKOにかかわりますいろいろな行動のうち、憲法第9条によって禁じられている武力の行使または武力による威嚇に当たる行為につきましては、わが国としてこれを行うことが許されない」と答弁しているとおり、政府は、武力の行使につながる可能性のある行為は憲法第9条違反であるとしてきた。

 一方で、いわゆる「正規の国連軍」参加の合憲性についてはこれを憲法第9条違反とは判断せず「研究中」(衆院予算委員会(90年10月19日)における工藤敦夫内閣法制局長官答弁)、「特別協定が決まらなければ、そのあたりの確定的な評価ができない」(衆院予算委員会(98年3月18日)における大森政輔内閣法制局長官答弁)としている。


 (2)憲法第9条の解釈に係る憲法の根本原則


 次に、上記(1)で述べたこれまでの憲法解釈の変遷の経緯を認識した上で、下記2で述べるわが国を取り巻く安全保障環境の変化を想起しつつ、憲法第9条の解釈を考えるに当たって、最も重要なよりどころとすべき憲法の根本原則を確認する。


 (ア)基本的人権の根幹としての平和的生存権および生命・自由・幸福追求権

 上述の72年の政府の見解にあるように、日本国憲法前文は、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」として平和的生存権を確認し、また、同第13条は、「生命、自由および幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」として国民の生命、自由および幸福追求の権利について定めている。これらは他の基本的人権の根幹と言うべき権利である。

 これらを守るためには、わが国が侵略されず独立を維持していることが前提条件であり、外からの攻撃や脅迫を排除する適切な自衛力の保持と行使が不可欠である。つまり、自衛力の保持と行使は、憲法に内在する論理の帰結でもある。


 (イ)国民主権

 また、日本国憲法前文は国民主権を「人類普遍の原理」とし「これに反する一切の憲法・・・を排除する」と規定している。「国民主権原理」は、「基本的人権」と同様、いかなる手段によっても否定できないいわば根本原則として理解されている。「国民主権原理」の実現には主権者たる国民の生存の確保が前提である。そのためには、わが国の平和と安全が維持されその存立が確保されていなければならない。平和は国民の希求するところである。

 同時に、主権者である国民の生存、国家の存立を危機に陥れることはそのような憲法上の観点からしてもあってはならない。国権の行使を行う政府の憲法解釈が国民と国家の安全を危機に陥れるようなことがあってはならない。


 (ウ)国際協調主義

 さらに、日本国憲法は、前文で「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる」とうたい、国際協調主義を掲げている。

 なお、憲法第98条は「日本国が締結した条約および確立された国際法規は、これを誠実に遵守じゅんしゅすることを必要とする」と述べて国際法規の誠実な遵守を定めている。このような憲法の国際協調主義の精神から、国際的な活動への参加は、わが国が最も積極的に取り組むべき分野と言わねばならない。


 (エ)平和主義

 平和主義は日本国憲法の根本原則の一つであり、今後ともこれを堅持していかなければならない。後述するとおり、日本国憲法の平和主義は、沿革的に、侵略戦争を違法化した戦争放棄に関する条約(不戦条約)(28年)や国連憲章(45年)等、20世紀前半以降の国際法思潮と密接な関係がある。憲法前文の「日本国民は、(略)政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、」という文言に体現されているとおり、わが国自身の不戦の誓いを原点とする憲法の平和主義は、侵略戦争と国際紛争解決のための武力行使を永久に放棄することを定めた憲法第9条の規定によって具体化されている。

 他方、憲法前文が「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と定めるとともに、「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」と定め、国際協調主義をうたっていることからも、わが国の平和主義は、同じく日本国憲法の根本原則である国際協調主義を前提として解されるべきである。

 すなわち、日本国憲法の平和主義は、自国本位の立場ではなく、国際的次元に立って解釈すべきであり、それは、自ら平和を乱さないという消極的なものではなく、平和を実現するために積極的行動を取るべきことを要請しているものと言える。

 政府は、13年12月17日に閣議決定された「国家安全保障戦略」において、わが国が、国際協調主義に基づく積極的平和主義の立場から、わが国の安全およびアジア太平洋地域の平和と安定を実現しつつ、国際社会の平和と安定および繁栄の確保にこれまで以上に積極的に寄与していくことを掲げているが、日本国憲法の平和主義は、この「国際協調主義に基づく積極的平和主義」の基礎にあるものであるといえる。



 2、わが国を取り巻く安全保障環境の変化

 わが国を取り巻く安全保障環境は、一層厳しさを増している。このような傾向は、08年の報告書の時に比べ、一層顕著となっている。


 第1は、技術の進歩と脅威やリスクの性質の変化である。

 今日では、技術の進歩やグローバリゼーションの進展により、大量破壊兵器およびその運搬手段は拡散・高度化・小型化しており、また、国境を越える脅威が増大し、国際テロの広がりが懸念されている。例えば北朝鮮は、度重なる国連安全保障理事会による非難・制裁決議を無視して、既に日本全土を覆う弾道ミサイルを配備し、米国に到達する弾道ミサイルを開発中である。北朝鮮は、また、核実験を3度実施しており、核弾頭の小型化に努めているほか、生物・化学兵器を保有しているとみられる。また現在、さまざまな主体によるサイバー攻撃が社会全体にとって大きな脅威・リスクとなっている。その対象は国家、企業、個人を超えて重層化・融合化が進み、国際社会の一致した迅速な対応が求められる。

 すなわち、世界のどの地域で発生する事象であっても、直ちにわが国の平和と安全に影響を及ぼし得るのである。したがって、従来のように国境の内側と外側を明確に区別することは難しくなっている。また、宇宙についても、その利用が民生・軍事双方に広がっていることから、その安定的利用を図るためには、平素からの監視とルール設定を含め、米国との協力をはじめとする国際協力の一層の強化が求められている。


 第2は、国家間のパワーバランスの変化である。

 このパワーバランスの変化の担い手は、中国、インド、冷戦後復活したロシア等国力が増大している国であり、国際政治の力学にも大きな影響を与えている。特にアジア太平洋地域においては緊張が高まっており、領土等をめぐる不安定要素も存在する。中国の影響力の増大は明らかであり、公表国防費の名目上の規模は、過去10年間で約4倍、過去26年間で約40倍の規模となっており、国防費の高い伸びを背景に、近代的戦闘機や新型弾道ミサイルを含む最新兵器の導入とその量的拡大が顕著である。中国の国防費に関しては引き続き不透明な部分が多いが、14年度公式発表予算額でも12兆円以上であり、わが国の3倍近くに達している。この趨勢すうせいが続けば、一層強大な中国軍が登場する。

 また、領有権に関する独自の主張に基づく力による一方的な現状変更の試みも看取されている。以上のような状況を踏まえれば、これに伴うリスクの増大が見られ、地域の平和と安定を確保するためにわが国がより大きな役割を果たすことが必要となっている。


 第3の変化は、日米関係の深化と拡大である。

 90年代以降は、弾道ミサイルや国際テロをはじめとした多様な事態に対処するための運用面での協力が一層重要になってきており、これまでの安全保障・防衛協力関係は大幅に拡大している。その具体的な表れとして、装備や情報を含めたさまざまなリソースの共有が進んでおり、今後ともその傾向が進むことが予想される。13年10月に開催された日米外務・防衛閣僚協議(「2プラス2」)において、「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」の見直しを行うことで合意され、日米間の具体的な防衛協力における役割分担を含めた安全保障・防衛協力の強化について議論していくこととなっている。

 日米同盟なくして、わが国が単独で上記第1および第2のような状況の変化に対応してその安全を全うし得ないことは自明であるとともに、同時に半世紀以上前の終戦直後とは異なり、わが国が一方的に米国の庇護ひごを期待するのではなく、日米両国や関係国が協力して地域の平和と安全に貢献しなければならない時代になっている。同盟の活力を維持し、さらに深化させるためには、より公平な負担を実現すべく不断の努力を続けていくことが必要になっているのである。

 このように、安全保障の全ての面での日米同盟の強化が不可欠であるが、これに加え、地域の平和と安定を確保するために重要な役割を果たすアジア太平洋地域内外のパートナーとの信頼・協力関係も必要となっている。


 第4の変化は、地域における多国間安全保障協力等の枠組みの動きである。

 67年に設立された東南アジア諸国連合(ASEAN)に加え、冷戦の終結や共通の安全保障課題の拡大に伴い、経済分野におけるアジア太平洋経済協力会議(APEC、89年)や外交分野におけるASEAN地域フォーラム(ARF、94年)にとどまらず、東アジア首脳会議(EAS、05年)の成立・拡大や拡大ASEAN国防相会議(ADMMプラス、10年)の創設など、政治・安全保障・防衛分野においてもさまざまな協力の枠組みが重層的に発展してきている。

 わが国としては、こうした状況を踏まえ、より積極的に各種協力活動に幅広く参加し、指導的な役割を果たすことができるような制度的・財政的・人的基盤を整備することが求められる。

 第5の変化は、アフガニスタンやイラクの復興支援、南スーダンの国づくり、また、シーレーンを脅かすアデン湾における海賊対処のように、国際社会全体が対応しなければならないような深刻な事案の発生が増えていることである。

 また、PKOを例にとれば、停戦監視といった任務が中心であったいわゆる伝統型から、より多様な任務を持つように変化するなど、近年、軍事力が求められる運用場面がより多様化し、復興支援、人道支援、海賊対処等に広がるとともに、世界のどの地域で発生する事象であっても、より迅速かつ切れ目なく総合的な視点からのアプローチが必要となっている。こうした国連を中心とした紛争対処、平和構築や復興支援の重要性はますます増大しており、国際社会の協力が一層求められている。


 最後に、第6の変化は、自衛隊の国際社会における活動である。

 91年のペルシャ湾における機雷掃海以降今日まで、自衛隊は直近の現在活動中の南スーダンにおける活動を含めて33件の国際的な活動に参加し、実績を積んできた。その中には、92年のカンボジアにおけるPKO、93年のモザンビークにおけるPKO、94年のザイール共和国(当時)東部におけるルワンダ難民救援のための人道的な国際救援活動、01年の米国同時多発テロ事件後の「不朽の自由作戦」に従事する艦船に対するインド洋における補給支援活動、03年から09年に至るイラク人道復興支援活動等が含まれる。

 海外における大規模災害に際しても、近年、自衛隊は、その機能や能力を生かした国際緊急援助活動を積極的に行ってきており、最近の例を挙げれば、13年11月にフィリピンを横断した台風により同国で発生した被害に関し、1200人規模の自衛隊員が、被災民の診療、ワクチン接種、防疫活動、物資の空輸、被災民の空輸等の活動を実施した。07年には国際緊急援助活動を含む国際平和協力活動が自衛隊の「本来任務」と位置付けられた。自衛隊の実績と能力は、国内外から高く評価されており、復興支援、人道支援、教育、能力構築、計画策定等さまざまな分野で、今後一層の役割を担うことが必要である。


 以上をまとめれば、わが国の外交・安全保障・防衛をめぐる状況は大きく変化しており、最近の戦略環境の変化はその規模と速度において過去と比べても顕著なものがあり、予測が困難な事態も増えている。これまでは、少なからぬ分野において、いわば事態の発生に応じて、憲法解釈の整理や新たな個別政策の展開を逐次図ってきたことは事実であるが、変化の規模と速度に鑑みれば、わが国の平和と安全を維持し、地域および国際社会の平和と安定を実現していく上では、従来の憲法解釈では十分に対応することができない状況に立ち至っている。


 3、わが国として採るべき具体的行動の事例

 08年の報告書では、4類型(

 ①公海における米艦の防護、
 ②米国に向かうかもしれない弾道ミサイルの迎撃、
 ③国際的な平和活動における武器使用、
 ④同じPKO等に参加している他国の活動に対する後方支援

)のそれぞれに関し、懇談会の提言を提示した。

 本懇談会では、これに加え、上述のようなわが国を取り巻く安全保障環境の変化に鑑みれば、例えば以下のような事例においてわが国が対応を迫られる場合があり得るが、従来の憲法解釈や法制度では十分に対応することができず、こうした事例に際してわが国が具体的な行動を採ることを可能とするあるべき憲法解釈や法制度を考える必要があるという問題意識が共有された。

 なお、以下の事例は上述の4類型と同様にあくまで次ページ以下で述べる憲法解釈や法制度の整理の必要性を明らかにするための具体例として挙げたものであり、これらの事例のみを合憲・可能とすべきとの趣旨ではない。


 ①事例1…わが国の近隣で有事が発生した際の船舶の検査、米艦等への攻撃排除等

 ―わが国の近隣で、ある国に対する武力攻撃が発生し、米国が集団的自衛権を行使してこの国を支援している状況で、海上自衛隊護衛艦の近傍を攻撃国に対し重要な武器を供給するために航行している船舶がある場合、たとえ被攻撃国および米国から要請があろうとも、わが国は、わが国への武力攻撃が発生しない限り、この船舶に対して強制的な停船・立入検査や必要な場合のわが国への回航を実施できない。

 現行の憲法解釈ではこれらの活動が「武力の行使」に当たり得るとされるためである。しかし、このような事案が放置されれば、紛争が拡大し、やがてはわが国自身に火の粉が降りかかり、わが国の安全に影響を与えかつ国民の生命・財産が直接脅かされることになる。


 ―また、被攻撃国を支援する米国その他の国々の艦船等が攻撃されているときには、これを排除するようわが国が協力する必要がある。この点に関連して、現行の「周辺事態に際してわが国の平和および安全を確保するための措置に関する法律」(周辺事態法)では、自衛隊による後方地域支援または後方地域捜索救助活動は、後方地域、すなわち「わが国領域ならびに現に戦闘行為が行われておらず、かつ、そこで実施される活動の期間を通じて戦闘行為が行われることがないと認められるわが国周辺の公海およびその上空の範囲」でしか実施できず、また、弾薬を含む武器の提供や戦闘作戦行動のために発進準備中の航空機に対する給油および整備については当時は米軍からのニーズがなかったとして含まれていないなど、米国に対する支援も限定的であり、また、そもそも米国以外の国に対する支援は規定されておらず、不可能である。


 ―そもそも「抑止」を十分に機能させ、わが国有事の可能性を可能な限り低くするためには、法的基盤をしかるべく整備する必要がある。


 ②事例2…米国が武力攻撃を受けた場合の対米支援

 ―米国も外部からの侵害に無傷ではあり得ない。例えば、01年の米国同時多発テロ事件では、民間航空機がハイジャックされ、米国の経済、軍事を象徴する建物に相次いで突入する自爆テロが行われ、日本人を含む約3千人の犠牲者が出た。仮に米国が弾道ミサイルによる奇襲といった武力攻撃を受け、その後、攻撃国に対して他の同盟国と共に自衛権を行使している状況において、現行の憲法解釈では、わが国が直接攻撃されたわけではないのでわが国ができることに大きな制約がある。


 ―わが国を攻撃しようと考える国は、米国が日米安全保障条約上の義務に基づき反撃する可能性が高いと考えるからこそ思いとどまる面が大きい。その米国が攻撃を受けているのに、必要な場合にもわが国が十分に対応できないということであれば、米国の同盟国、日本に対する信頼は失われ、日米同盟に甚大な影響が及ぶおそれがある。日米同盟が揺らげばわが国の存立自体に影響を与えることになる。


 ―わが国は、わが国近傍の国家から米国が弾道ミサイルによる奇襲といった武力攻撃を受けた場合、米国防衛のための米軍の軍事行動に自衛隊が参加することはおろか、例えば、事例1で述べたように、攻撃国に武器を供給するために航行している船舶の強制的な停船・立入検査や必要な場合のわが国への回航でさえも、現行の憲法解釈では「武力の行使」に当たり得るとして実施できない。
 
 船舶の検査等は、陸上の戦闘のような活動とは明らかに異なる一方で、攻撃国への武器の移転を阻む洋上における重要な活動であり、こうしたことを実施できるようにすべきである。また、場合によっては米国以外の国々とも連携する必要があり、こうした国々をも支援することができるようにすべきである。


 ③事例3…わが国の船舶の航行に重大な影響を及ぼす海域(海峡等)における機雷の除去

 ―湾岸戦争に際してイラクは、ペルシャ湾に多数の機雷を敷設し、当該機雷は世界の原油の主要な輸送経路の一つである同湾におけるわが国のタンカーを含む船舶の航行の重大な障害となった。今後、わが国が輸入する原油の大部分が通過する重要な海峡等で武力攻撃が発生し、攻撃国が敷設した機雷で海上交通路が封鎖されれば、わが国への原油供給の大部分が止まる。これが放置されれば、わが国の経済および国民生活に死活的な影響があり、わが国の存立に影響を与えることになる。


 ―武力紛争の状況に応じて各国が共同して掃海活動を行うことになるであろうが、現行の憲法解釈では、わが国は停戦協定が正式に署名されるなどにより機雷が「遺棄機雷」と評価されるようになるまで掃海活動に参加できない。そのような現状は改める必要がある。


 ④事例4…イラクのクウェート侵攻のような国際秩序の維持に重大な影響を及ぼす武力攻撃が発生した際の国連の決定に基づく活動への参加


 ―イラクのクウェート侵攻のような国際秩序の維持に重大な影響を及ぼす武力攻撃が発生し、国際正義がじゅうりんされ国際秩序が不安定になれば、わが国の平和と安全に無関係ではあり得ない。例えばテロがまん延し、わが国を含む国際社会全体へ無差別な攻撃が行われるおそれがあり、わが国の安全、国民の生命・財産に甚大な被害を与えることになる。


 ―わが国は、国連安全保障理事会常任理事国が一国も拒否権を行使せず、軍事的措置を容認する国連安全保障理事会決議が採択された場合ですら、現行の憲法解釈では、支援国の海軍艦船の防護といった措置が採れないし、また、支援活動についても、後方地域における、しかも限られた範囲のものしかできない。加えて、現状では国内法の担保もないので、その都度特別措置法等のような立法も必要である。


 ―国際の平和と安全の維持・回復のための国連安全保障理事会の措置に協力することは、国連憲章に明記された国連加盟国の責務である。国際社会全体の秩序を守るために必要な貢献をしなければ、それは、自らのよって立つ安全の土台を掘り崩すことになる。


 ⑤事例5…わが国領海で潜没航行する外国潜水艦が退去の要求に応じず徘徊はいかいを継続する場合の対応


 ―04年11月に、先島群島周辺のわが国領海内を潜没航行している中国原子力潜水艦を海上自衛隊のP3Cが確認した。また、13年5月には、領海への侵入はなかったものの、接続水域内を航行する潜没潜水艦を海上自衛隊のP3Cが相次いで確認した。現行法上、わが国に対する「武力攻撃」(=一般に組織的・計画的な武力の行使)がなければ、防衛出動に伴う武力の行使はできない。

 潜没航行する外国潜水艦がわが国領海に侵入してきた場合、自衛隊は警察権に基づく海上警備行動等によって退去要求等を行うことができる(04年のケース)が、その潜水艦が執拗しつように徘徊を継続するような場合に、その事態が「武力攻撃事態」と認定されなければ、現行の海上警備行動等の権限では自衛隊が実力を行使してその潜水艦を強制的に退去させることは認められていない。このような現状を放置してはならない。


 ⑥事例6…海上保安庁等が速やかに対処することが困難な海域や離島等において、船舶や民間人に対し武装集団が不法行為を行う場合の対応


 ―このような場合、海上における事案については、当該事案が自衛隊法第82条にいう「海上における人命もしくは財産の保護または治安の維持のため特別の必要がある場合」に該当すると判断される場合は、内閣総理大臣の承認を得て防衛大臣が命令することによって、自衛隊部隊が海上警備行動を採ることができる。

 また、陸上における事案については、当該事案が自衛隊法第78条にいう「一般の警察力をもつては、治安を維持することができないと認められる場合」に該当すると判断される場合は、内閣総理大臣が命令することによって、自衛隊部隊が治安出動することができる。さらに、防衛大臣は、事態が緊迫し、防衛出動命令が予想される場合には、内閣総理大臣の承認を得て、自衛隊の部隊等にあらかじめ展開させることが見込まれる地域内において防御施設を構築する措置を命ずることができる。


 ―しかし、このような海上警備行動や治安出動、防御施設構築の措置等の発令手続きを経る間に、仮にも対応の時機を逸するようなことが生じるのは避けなければならないが、部隊が適時に展開する上での手続き的な敷居が高いため、より迅速な対応を可能とするための手当てが必要である。

 ―事例5および6のような場合を含め、武力攻撃に至らない侵害を含む各種の事態に応じた対応を可能とすべく、どのような実力の行使が可能か、国際法の基準に照らし検討する必要がある。

 ―現在の法制度では、防衛出動との間に権限の隙間が生じ得ることから、結果として相手を抑止できなくなるおそれがある。



Ⅱ、あるべき憲法解釈


 上記Ⅰで述べた認識を踏まえ、本懇談会は、あるべき憲法解釈として、以下を提言する。


 1、憲法第9条第1項および第2項


 (1)憲法第9条は、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と規定しており、自衛権や集団安全保障については何ら言及していない。

 しかしながら、わが国が主権を回復した52年4月に発効した日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)においても、わが国が個別的または集団的自衛の固有の権利を有することや集団安全保障措置への参加は認められており、また、わが国が56年9月に国連に加盟した際も、国連憲章に規定される国連の集団安全保障措置や、加盟国に個別的または集団的自衛の固有の権利を認める規定(第51条)について何ら留保は付さなかった。

 憲法第9条第1項がわが国による武力による威嚇または武力の行使を例外なく禁止していると解釈するのは、不戦条約や国連憲章(45年)等の国際法の歴史的発展および憲法制定の経緯から見ても、適切ではない。46年に公布された日本国憲法は、20世紀前半の平和主義、戦争違法化に関する国際法思潮から大きな影響を受けている。わが国憲法第9条の規定は、20世紀に確固たる潮流となった国際平和主義の影響を深く受けているのであり、国際社会の思潮と孤絶しているわけではない。不戦条約は、「国際紛争解決ノ為」に戦争に訴えることを非とし、「国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争」を放棄することを規定することで、締約国間の侵略戦争の放棄を約束した。

 この戦争違法化の流れをくんで作成された国連憲章は、日本国憲法公布の1年前に採択されたものである。国連憲章は、加盟国の国際関係における「武力の行使」を原則として禁止したが、国連の集団安全保障措置としての軍事的措置および個別的または集団的自衛の固有の権利(第51条)の行使としての「武力の行使」を実施することは例外的に許可している。

 また、日本国憲法の起草経緯を見れば、憲法第9条の起点となったマッカーサー三原則(46年2月3日)の第二原則は、日本は自らの紛争を解決するための手段としての戦争を放棄する(

Japan renounces it as an instrumentality for settling its disputes

)となっている。政府も46年の時点で既に吉田総理が新憲法草案に関し、先述のとおり「戦争抛棄ニ関スル本案ノ規定ハ、直接ニハ自衛権ヲ否定ハシテ居リマセヌ(略)」と述べていた(衆院本会議(46年6月26日))のであり、また、自衛隊創設時の国会答弁においては「戦争と武力の威嚇・武力の行使が放棄されるのは『国際紛争を解決する手段としては』ということである」「他国から武力攻撃があつた場合に、武力攻撃そのものを阻止することは、自己防衛そのものであつて、国際紛争を解決することとは本質が違う。

 従つて自国に対して武力攻撃が加えられた場合に、国土を防衛する手段として武力を行使することは、憲法に違反しない」と述べていたのである(前掲の大村清一防衛庁長官答弁)。

 これらの経緯を踏まえれば、憲法第9条第1項の規定(「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」)は、わが国が当事国である国際紛争の解決のために武力による威嚇または武力の行使を行うことを禁止したものと解すべきであり、自衛のための武力の行使は禁じられておらず、またPKO等や集団安全保障措置への参加といった国際法上合法的な活動への憲法上の制約はないと解すべきである。


 なお、PKO等における武器使用を、第9条第1項を理由に制限することは、国連の活動への参加に制約を課している点と、下記5で述べるとおり「武器の使用」を「武力の行使」と混同している点で、二重に適切でない解釈であることを指摘しておきたい。

 (2)憲法第9条第2項は、第1項において、武力による威嚇や武力の行使を「国際紛争を解決する手段」として放棄すると定めたことを受け、「前項の目的を達するため」に戦力を保持しないと定めたものである。

 したがって、わが国が当事国である国際紛争を解決するための武力による威嚇や武力の行使に用いる戦力の保持は禁止されているが、それ以外の、すなわち、個別的または集団的を問わず自衛のための実力の保持やいわゆる国際貢献のための実力の保持は禁止されていないと解すべきである。これら(1)および(2)と同様の考え方は前回08年6月の報告書でもとられていた。


 (3)上述の前回報告書の立場、特に(2)で述べた個別的または集団的を問わず自衛のための実力の保持や、いわゆる国際貢献のための実力の保持は合憲であるという考え方は、憲法第9条の起草過程において、第2項冒頭に「前項の目的を達するため」という文言が後から挿入された(いわゆる「芦田修正」)との経緯に着目した解釈であるが、政府はこれまでこのような解釈をとってこなかった。

 再度政府の解釈を振り返れば、前述のとおり、政府は、46年の制憲議会の際に吉田総理答弁において自衛戦争も放棄したと明言していたにもかかわらず、54年以来、国家・国民を守るために必要最小限度の自衛力の保持は主権国家の固有の権利であるという解釈を打ち出した。この解釈は最高裁判所でも否定されていない。

 しかし、その後の国会答弁において、政府は憲法上認められる必要最小限度の自衛権の中に個別的自衛権は入るが、集団的自衛権は入らないという解釈を打ち出し、今もってこれに縛られている。集団的自衛権の概念が固まっていなかった当初の国会論議の中で、その概念の中核とされた海外派兵の自制という文脈で打ち出された集団的自衛権不行使の議論は、やがて集団的自衛権一般の不行使の議論として固まっていくが、その際どうしてわが国の国家および国民の安全を守るために必要最小限の自衛権の行使は個別的自衛権の行使に限られるのか、逆に言えばなぜ個別的自衛権だけでわが国の国家および国民の安全を確保できるのかという死活的に重要な論点についての論証は、上記Ⅰ・1・(1)の憲法解釈の変遷で述べたとおり、ほとんどなされてこなかった。

 すなわち、政府は「外国の武力攻撃によって国民の生命・自由および幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである」(72年10月に参院決算委員会に提出した政府の見解)として、集団的自衛権の不行使には何の不都合もないと断じ、集団的自衛権を行使できなくても独力でわが国の国家および国民の安全を本当に確保できるのか、ということについて詳細な論証を怠ってきた。


 国家は他の信頼できる国家と連携し、助け合うことによって、よりよく安全を守り得るのである。集団的自衛権の行使を可能とすることは、他の信頼できる国家との関係を強固にし、抑止力を高めることによって紛争の可能性を未然に減らすものである。

 また、仮に一国が個別的自衛権だけで安全を守ろうとすれば、巨大な軍事力を持たざるを得ず、大規模な軍拡競争を招来する可能性がある。したがって、集団的自衛権は全体として軍備のレベルを低く抑えることを可能とするものである。一国のみで自国を守ろうとすることは、国際社会の現実に鑑みればむしろ危険な孤立主義にほかならない。


 そもそも国連憲章中の集団的自衛権の規定は、45年の国連憲章起草の際に国連安全保障理事会の議決手続きに拒否権が導入されることになった結果、国連安全保障理事会の機能に危惧が抱かれるようになり、そのため個別的自衛権のみでは生存を全うできないと考えた中南米のチャプルテペック協定参加国が提唱して認められたものであるという起草経緯をあらためて想起する必要がある。

 国連憲章では、第2条4により国際関係における武力の行使が禁じられているが、第51条に従って個別的または集団的自衛のために武力を行使する権利は妨げられない。これは、同条に明記されているとおり、自衛権が国家が当然に有している固有の権利(「自然権」(droit naturel))であるからである。

 また、今日、集団的自衛権は慣習国際法上の権利であるとされており、この点については国際司法裁判所もその判決中で明確に示している(86年6月「ニカラグア軍事・準軍事活動事件(本案)」国際司法裁判所判決)。国際社会における諸国間の国力差および国連安全保障理事会における拒否権の存在やその機能・手法を考えれば、国連の集団安全保障体制が十分に機能するまでの間、中小国は自己に対する攻撃を独力で排除することだけを念頭に置いていたら自衛は全うできないのであって、自国が攻撃された場合のみならず、他国が攻撃された場合にも同様にあたかも自国が攻撃されているとみなして、集団で自衛権が行使できることになっているのである。

 今日の安全保障環境を考えるとき、集団的自衛権の方が当然に個別的自衛権より危険だという見方は、抑止という安全保障上の基本観念を無視し、また、国連憲章の起草過程を無視したものと言わざるを得ないのである。以上を踏まえれば、上述した政府のこれまでの見解である、「(自衛のための)措置は、必要最小限度の範囲にとどまるべき」という解釈に立ったとしても、その「必要最小限度」の中に個別的自衛権は含まれるが集団的自衛権は含まれないとしてきた政府の憲法解釈は、「必要最小限度」について抽象的な法理だけで形式的に線を引こうとした点で適当ではない。事実として、今日の日本の安全が個別的自衛権の行使だけで確保されるとは考え難い。

 したがって、「必要最小限度」の中に集団的自衛権の行使も含まれると解釈して、集団的自衛権の行使を認めるべきである。


 (4)なお、上記(3)のような解釈を採る場合には、憲法第9条第2項にいう「戦力」および「交戦権」については、次のように考えるべきである。


 「戦力」については、自衛権行使を合憲と踏み切った主権回復直後の自衛隊創設後に至る憲法解釈変遷の際に「近代戦争遂行能力」と定義されたこともあったが、その後は、自衛のための必要最小限度の実力を超えるものとされ、72年11月、吉國一郎内閣法制局長官は、「昭和29年12月以来は、憲法第9条第2項の戦力といたしまして、(略)近代戦争遂行能力という言い方をやめております」と明言した。

 現在では「自衛のための必要最小限度の実力」の具体的な限度は防衛力整備をめぐる国会論議の中で国民の支持を得つつ考査されるべきものとされている。客観的な国際情勢に照らして、憲法が許容する武力の行使に必要な実力の保持が許容されるという考え方は、今後も踏襲されるべきものと考える。

 「交戦権」については、自衛のための武力の行使は憲法の禁ずる交戦権とは「別の観念のもの」であるとの答弁がなされてきた。国策遂行手段としての戦争が国連憲章により

jus ad bellum(戦争に訴えること自体を規律する規範)

の問題として一般的に禁止されている状況の中で、個別的および集団的自衛権の行使や国連の集団安全保障措置等のように国連憲章を含む国際法に合致し、かつ、憲法の許容する武力の行使は、憲法第9条の禁止する交戦権の行使とは「別の観念のもの」と引き続き観念すべきものである。ただし、合法な武力行使であっても

jus in bello(戦時における戦闘の手段・方法を規律する規範)

の問題として国際人道法規上の規制を受けることは当然である。


 2、憲法上認められる自衛権

 (1)個別的自衛権の行使に関する見解として、政府は、従来、憲法第9条の下において認められる自衛権の発動としての武力の行使については、

 ①わが国に対する急迫不正の侵害があること、
 ②これを排除するために他の適当な手段がないこと、
 ③必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと、

という3要件に該当する場合に限られるとしている。

 このように、この3要件を満たす限り行使に制限はないが、その実際の行使に当たっては、その必要性と均衡性を慎重かつ迅速に判断して、決定しなければならない(武力攻撃に至らない侵害への対応については後述する)。


 (2)集団的自衛権とは、国際法上、一般に、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていない場合にも、実力をもって阻止する権利と解されている。

 また、集団的自衛権の行使は、武力攻撃の発生(注・着手も含まれる)、被攻撃国の要請または同意という要件が満たされている場合に、必要性、均衡性という要件を満たしつつ行うことが求められる。

 わが国においては、この集団的自衛権について、わが国と密接な関係にある外国に対して武力攻撃が行われ、その事態がわが国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるときには、わが国が直接攻撃されていない場合でも、その国の明示の要請または同意を得て、必要最小限の実力を行使してこの攻撃の排除に参加し、国際の平和および安全の維持・回復に貢献することができることとすべきである。そのような場合に該当するかについては、わが国への直接攻撃に結びつく蓋然がいぜん性が高いか、日米同盟の信頼が著しく傷つきその抑止力が大きく損なわれ得るか、国際秩序そのものが大きく揺らぎ得るか、国民の生命や権利が著しく害されるか、その他わが国へ深刻な影響がおよび得るかといった諸点を政府が総合的に勘案しつつ責任を持って判断すべきである。

 また、わが国が集団的自衛権を行使するに当たり第三国の領域を通過する場合には、わが国の方針として、その国の同意を得るものとすべきである。

 さらに、集団的自衛権を行使するに当たっては、個別的自衛権を行使する場合と同様に、事前または事後に国会の承認を得る必要があるものとすべきである。


 集団的自衛権は権利であって、義務ではないので、行使し得る場合であっても、わが国が行使することにどれだけ意味があるのか等を総合的に判断して、政策的判断の結果、行使しないことがあるのは当然である。わが国による集団的自衛権の行使については、内閣総理大臣の主導の下、国家安全保障会議の議を経るべきであり、内閣として閣議決定により意思決定する必要がある。
 
 なお、集団的自衛権の行使を認めれば、果てしなく米国の戦争に巻き込まれるという議論が一部にあるが、そもそも集団的自衛権の行使は義務ではなく権利であるので、その行使はあくまでもわが国が主体的に判断すべき問題である。

 この関連で、個別的または集団的自衛権を行使する自衛隊部隊の活動の場所について、憲法解釈上、地理的な限定を設けることは適切でない。「地球の裏側」まで行くのかうんぬんという議論があるが、不毛な抽象論にすぎず、ある事態がわが国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるか、かつわが国の行動にどれだけの効果があるかといった点を総合的に勘案し、個別具体的な事例に則して主体的に判断すべきである。

 なお、繰り返しになるが、集団的自衛権は権利であって義務ではなく、先に述べたような政策的判断の結果として、行使しないことももちろんある点に留意が必要である。


 (3)本来は集団的自衛権の行使の対象となるべき事例について、個別的自衛権や警察権をわが国独自の考え方で「拡張」して説明することは、国際法違反のおそれがある。例えば、公海上で日米の艦船が共同行動をしている際に、自衛艦が攻撃されていないにもかかわらず個別的自衛権の行使として米艦を防護した場合には、国連憲章第51条に基づきわが国がとった措置につき国連安全保障理事会に報告する義務が生じるが、「わが国に対して武力攻撃が発生した」という事実がないにもかかわらず個別的自衛権の行使として報告すれば、国連憲章違反との批判を受けるおそれがある。

 また、各国が独自に個別的自衛権の「拡張」を主張すれば、国際法に基づかない各国独自の「正義」が横行することとなり、これは実質的にも危険な考えである。


 (4)情報通信技術の発展に伴い、今やサイバー空間は人々の生活に必要不可欠なものとなっている。サイバー空間は、インターネットの発達により形成された仮想空間であり、安全保障上も陸・海・空・宇宙に続く新しい領域であると言えるが、その法的側面については議論が続いているところである。ひとたびサイバー攻撃が行われれば、政府機関から企業に至る社会の隅々にまで深刻な影響を及ぼすこととなり、この問題の重要性が認識されるに至っている。

 現実にも、近年、諸国の政府機関や軍隊などに対するサイバー攻撃が多発しており、各国政府による取り組みや国際的な議論が行われているところである。


 日進月歩の技術進歩を背景とするサイバー攻撃は、攻撃の予測や攻撃者の特定が困難であったり、攻撃の手法が多様であるといった特徴を有しており、従来の典型的な武力攻撃と異なる点も少なくない。そのため、サイバー攻撃の法的位置付けについて一概に述べるのは困難である。

 これまでのところ、サイバー攻撃が「武力攻撃」に該当しないと位置付けられている事例が多いように見受けられる。他方、一定の場合には、サイバー攻撃が、「わが国に対する急迫不正の侵害があること」という要件を含め、自衛権発動の3要件を満たす場合もあると考えられる。

 いずれにしても、どのような場合がそれに該当するかという点や、外部からのサイバー攻撃に対処するための制度的な枠組みの必要性等について、国際社会における議論にも留意しつつ、引き続き、検討が必要である。


 3、軍事的措置を伴う国連の集団安全保障措置への参加


 軍事的措置を伴う国連の集団安全保障措置への参加については、上記Iで述べたとおり、これまでの政府の憲法解釈では、正規の国連軍については研究中としながらも、いわゆる国連多国籍軍の場合は、武力の行使につながる可能性のある行為として、憲法第9条違反のおそれがあるとされてきた。

 しかしながら、上記Ⅱ・1・(1)で述べたとおり、憲法第9条が国連の集団安全保障措置へのわが国の参加までも禁じていると解釈することは適当ではなく、国連の集団安全保障措置は、わが国が当事国である国際紛争を解決する手段としての武力の行使に当たらず、憲法上の制約はないと解釈すべきである。

 国連安全保障理事会決議等による集団安全保障措置への参加は、国際社会における責務でもあり、憲法が国際協調主義を根本原則とし、憲法第98条が国際法規の誠実な遵守を定めていることからも、わが国として主体的な判断を行うことを前提に、積極的に貢献すべきである。近年わが国は、武力の行使以外の後方支援等の領域においては、国際社会の秩序を維持するための活動への貢献の幅を着実に広げてきている。

 先に述べたとおり、01年9月に米国で同時多発テロ事件が発生したことを受け、同年11月には「平成十三年九月十一日のアメリカ合衆国において発生したテロリストによる攻撃等に対応して行われる国連憲章の目的達成のための諸外国の活動に対してわが国が実施する措置および関連する国連決議等に基づく人道的措置に関する特別措置法」(テロ対策特別措置法)を制定して、インド洋に自衛艦を派遣し補給支援活動を行った。

 また、03年には、「イラクにおける人道復興支援活動および安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」(イラク人道復興支援特別措置法)により、戦後初めて多国籍軍が占領行政を行っている他国領域の陸上において自衛隊が人道復興支援活動に従事した。

 国連憲章第7章が定める国連の集団安全保障措置には、軍事的措置と非軍事的措置があるが、非軍事的措置を規定した国連憲章第41条に基づく経済制裁への参加については、わが国はこれまでも、関連の国連安全保障理事会決議に基づく北朝鮮の核関連、その他の大量破壊兵器関連および弾道ミサイル関連計画に関与する者に対して資産凍結等の措置を講ずるなど、積極的に協力を行ってきている。

 憲法前文で国際協調主義を掲げ、国連への協力を安全保障政策の柱の一つとしてきたわが国が、同じ国際社会の秩序を守るための国連安全保障理事会決議等に基づく国連の集団安全保障措置であるにもかかわらず、軍事力を用いた強制措置を伴う場合については一切の協力を行うことができないという現状は改める必要がある。

 このように国連等が行う国際的な平和活動については憲法上制約がないとするとしても、国連憲章が本来予定した、国連軍の創設を含む形での集団安全保障体制が実現しておらず、また、国連安全保障理事会決議に基づく平和活動にも種々の段階があり、その原因、国連の参加の態様も個々の事例に応じて多様であるので、平和活動への参加に関しては、個々の場合について、政策上わが国が参加することにどれだけ意味があるのかなどを総合的に検討して、慎重に判断すべきことは当然である。

 なお、言うまでもなく、軍事力を用いた強制措置を伴う国連の集団安全保障措置に参加するに当たっては、事前または事後に国会の承認を得るものとすべきである。


 4、いわゆる「武力の行使との一体化」論

 08年の報告書でも言及したとおり、「武力の行使との一体化」というのはわが国特有の概念である。特に90年代、湾岸戦争のころから、にわかに声高に議論され、精緻化が進んだ。それ以前に「武力の行使との一体化」の問題が国会で答弁されたことはあまりない。しかし、この議論は、国際法上も国内法上も実定法上に明文の根拠を持たず、最高裁判所による司法判断が行われたこともなく、国会の議論に応じて範囲が拡張され、安全保障上の実務に大きな支障を来たしてきた。


 それ自体は武力の行使に当たらないわが国の補給、輸送、医療等の後方支援でも「他国の武力の行使と一体化」する場合には憲法第9条の禁ずる武力の行使とみなされるという考え方は、元来日米安全保障条約の脈絡で議論されたものである。このような考え方を論理的に突き詰める場合には、例えば政府は現在行われている日米同盟下の米軍に対する施設・区域の提供は米国の武力行使と一体化しないとしているが、現実に極東有事の際日米安全保障条約第6条の下で米軍が戦闘作戦行動のためにわが国国内の基地を使用し始めれば、わが国の基地使用許可は、米軍の「武力の行使と一体化」するので、日米安全保障条約そのものが違憲であるというような不合理な結論になりかねない。

 このほか、国連平和協力法案(廃案)、PKO協力法案、周辺事態法案、テロ対策特別措置法案およびイラク復興支援特別措置法案の国会審議の際にもしばしば問題になったように、「武力の行使との一体化」論は、後方支援がいかなる場合に他国による武力の行使と一体化するとみなすのか、その判断を誰が行うのか、「戦闘地域」と「非戦闘地域」の区分は何か等、そもそも事態が刻々と変わる活動の現場において、観念的には一見精緻に見える議論をもって「武力の行使との一体化」論を適用すること自体、非現実的であり極めて困難である。例えば、ミサイル等軍事技術が急速に発達した現下の状況では、どこが「非戦闘地域」かを定性的に定義することは現実的でなくなっている。

 「武力の行使との一体化」の論理のゆえに、例えば、日米間で想定した事態の検討にも支障があり得るとすれば、わが国の安全を確保していくための備えが十分とは言えない。この問題は、日米安全保障条約の運用のみならず国際的な平和活動への参加の双方にまたがる問題である。

 「武力の行使との一体化」論は、憲法上の制約を意識して、新たな活動について慎重を期すために厳しく考えたことから出てきた議論である。したがって、国際平和協力活動の経験を積んだ今日においては、いわゆる「武力の行使との一体化」論はその役割を終えたものであり、このような考えはもはやとらず、政策的妥当性の問題として位置付けるべきである。

 実際にどのような状況下でどのような後方支援を行うかは、内閣として慎重に検討して意思決定すべきものであることは言うまでもない。


 5、PKO等への協力と武器使用


 (1)わが国は、92年6月のPKO協力法制定以来、PKO協力法に基づき、延べ約1万人(14年3月末時点)の要員をPKO等に派遣し、着実に実績と経験を積み上げ、国民の支持と国際社会からの高い評価を得てきている。PKO等への協力は、わが国が国際社会の平和と安定に責任を果たすための最も有効な手段の一つであり、今後もPKO等への要員派遣を積極的に実施していくべきである。

 他方、これまで、わが国のPKO等に対する協力は、当事者間の停戦合意を支える平和維持活動を中心とするPKO協力法制定当時のPKO等の実態を踏まえつつ、当時の国内世論にも配慮して抑制的に構築された制度に従って、いわゆるPKO参加5原則の下、運用上も慎重に行われてきた。国連は「主たる紛争当事者」の同意を基本原則としてPKOミッションを設立しているのに対し、現行PKO協力法の下では、「全ての」紛争当事者の受入れ同意が必要だとして運用してきた。

 また、停戦合意についても、国連では、停戦合意がない場合でも事実上の停戦状態を前提としてPKOミッションを設立しているが、わが国では、紛争当事者間の停戦合意を要件としている。このような状況は、全ての「紛争当事者」の特定が容易であり、紛争当事者間の明確な停戦合意の確認が容易であった国家間紛争から、「紛争当事者」を特定することが困難な場合もある内戦型または複合型へと紛争が質的に変化し、PKO等の役割・態様も多様化し、国連憲章第7章下の一定の強制力を付与された「強化されたPKO」も増えてきている今日の実態にそぐわない。

 このようなPKOの実態との相違ならびにPKOの任務および活動主体の多様化を踏まえた上で、わが国のより積極的な国際平和協力を可能とするためには何が必要かとの観点から、いわゆるPKO参加5原則についても見直しを視野に入れ、検討する必要がある。


 (2)PKOの活動の性格は、「武力の行使」のような強制措置ではないが、紛争当事者間の停戦の合意を維持し、また、領域国の新しい国づくりを助けるため、国連の権威の下で各国が協力する活動である。このような活動における駆け付け警護や妨害排除に際しての武器使用は、そもそも「武力の行使」に当たらず、憲法上の制約はないと解釈すべきである。

 一方、政府は、これまで、PKO等におけるいわゆる駆け付け警護や妨害排除のための武器の使用に関しては、いわば自己保存のための自然権的権利に当たるものとは言えず、現行の憲法解釈の下では、相手方が「国家または国家に準ずる組織」である場合には、憲法で禁じられた「武力の行使」に当たるおそれがあるので認められないとしてきた。

 たとえば03年5月15日の参院外交防衛委員会において宮崎礼壹内閣法制局第一部長が「自衛隊の部隊の所在地からかなり離れた場所に所在します他国の部隊なり隊員さんの下に駆け付けて武器使用するという場合は、わが国の自衛官自身の生命または身体の危険が存在しない場合の武器使用だという前提だというお尋ねだと思います。(略)このような場合に駆け付けて武器を使用するということは、いわば自己保存のための自然権的権利というべきものだという説明はできないわけでございます。(略)その駆け付けて応援しようとした対象の事態、あるいはお尋ねの攻撃をしているその主体というものが国または国に準ずる者である場合もあり得るわけでございまして、そうでありますと、(略)それは国際紛争を解決する手段としての武力の行使ということに及ぶことが、及びかねないということになるわけでございまして、そうでありますと、憲法九条の禁じます武力の行使に当たるおそれがあるというふうに考えてきたわけでございます」と答弁している。

 しかしながら、08年の報告書でも指摘したとおり、そもそもPKOは武力紛争の終了を前提に行う活動(あるいは武力紛争の開始・再発前にこれを予防するための活動)であり、PKOの国際基準で認められた武器使用が国連憲章で禁止された国際関係における「武力の行使」に当たると解釈している国はどこにもなく、自衛隊がPKO等の一員として、駆け付け警護や妨害排除のために国際基準に従って行う武器使用は、相手方が単なる犯罪集団であるか「国家または国家に準ずる組織」であるかどうかにかかわらず、憲法第9条の禁ずる武力の行使には当たらないと解すべきである。さらに、近年の複合型PKO等においては、国内紛争や脆弱ぜいじゃく国家への対応として、治安維持や文民の保護等の業務が重要となっており、具体的検討に当たっては、駆け付け警護や妨害排除のための武器使用を可能にするとともに、法制度上、こうした業務も実施できるようにすべきである。

 重要なことは、このような武器使用は、国連においては明確に国連憲章第2条4により禁止されている国際関係における「武力の行使」とは異なる概念であると観念されていることである。PKOは、不偏性を持ち、主たる紛争当事者の同意を得て行われる活動であり、その任務は武力の行使が発生するのを防ぐための予防的活動か、武力行使が収まった後の平和維持や人道・復興支援である。その意味で、PKOは国連憲章が加盟国に対して禁じている国際関係における「武力の行使」を行う活動ではない。PKOは国連決議の下に組織されるいわゆる多国籍軍のような大規模な軍事活動を伴い得る平和執行とは峻別しゅんべつされるものである。また、国連憲章第7章下の一定の強制力を付与された「強化されたPKO」も、その実態はPKOの範疇はんちゅうを出ず、平和執行とは峻別されているものである。


 6、在外自国民の保護・救出等


 13年1月の在アルジェリア邦人に対するテロ事件を受けて、政府は、同年11月、外国におけるさまざまな緊急事態に際してより適切に対応できるよう、自衛隊による在外邦人等輸送(自衛隊法第84条の3)について、輸送対象者を拡大し、車両による輸送を可能とすること等を内容とする自衛隊法の改正を行った。

 しかし、この職務に従事する自衛官の武器使用の権限については、いわゆる自己保存型のままとし、救出活動や妨害排除のための武器使用を認めるには至らなかった。現状の解釈のままでは、必要な武器使用権限が確保されないため、現場に自国民救出のために自衛隊が駆け付けることはできない。

 国際法上、在外自国民の保護・救出は、領域国の同意がある場合には、領域国の同意に基づく活動として許容される。在外自国民の保護・救出の一環としての救出活動や妨害排除に際しての武器使用についても、領域国の同意がある場合には、そもそも「武力の行使」に当たらず、当該領域国の治安活動を補完・代替するものにすぎないものであって、憲法上の制約はないと解釈すべきである。

 なお、領域国の同意がない場合にも、在外自国民の保護・救出は、国際法上、所在地国が外国人に対する侵害を排除する意思または能力を持たず、かつ当該外国人の身体、生命に対する重大かつ急迫な侵害があり、ほかに救済の手段がない場合には、自衛権の行使として許容される場合がある。憲法上認められる自衛権の発動としての「武力の行使」をめぐる国会の議論においては、在外自国民の保護・救出のための自衛権の行使が否定されているように見受けられるが、多くの日本人が海外で活躍し、13年1月のアルジェリアでのテロ事件のような事態が生じる可能性がある中で、憲法が在外自国民の生命、身体、財産等の保護を制限していると解することは適切でなく、国際法上許容される範囲の在外自国民の保護・救出を可能とすべきである。国民の生命・身体を保護することは国家の責務でもある。


 7、国際治安協力


 在外自国民の保護・救出以外の活動であっても、領域国の同意に基づいて、同国の警察当局等の機関がその任務の一環として行うべき治安の回復および維持のための活動の一部を補完的に行っているものと観念される活動や、普遍的な管轄権に基づいて海賊等に対処する活動、すなわち国際的な治安協力については、国際法上は、国連の集団安全保障措置ではなく、国連憲章第2条4で禁止されている国際関係における「武力の行使」にも当たらない。このような活動についても、そもそも「武力の行使」に当たらず、憲法上の制約はないと解釈すべきである。そのような事例は、国連決議によって求められることもあれば、領域国の同意や要請の下で行われることもあれば、公海上のような国際公域における自発的な秩序維持の場合もある。

 端的な例として、アデン湾の海賊対処をこの観点から位置付けることも可能である。これには「アタランタ」作戦を開始した欧州連合(EU)諸国、北大西洋条約機構(NATO)諸国のほか、日本、中国、イラン、韓国等が参加している。国連は安全保障理事会決議第1816号等によって加盟国の協力を要請している。日本は09年から自衛隊と海上保安庁が協力して参加している。


 このような治安協力は、国連憲章第2条4の禁ずる国際関係における「武力の行使」ではなく、武器の使用を伴う治安活動であるので、基本的に憲法問題は生じず、活動根拠の付与は法律レベルにより行うことができる。政府も国会において、海賊対処法案の審議の中で、自衛隊を派遣するに際し、「国や国に準ずる者と申しますか、国等が国等の行為として行われるものは、その定義上海賊行為からは除外されております。したがいまして、御懸念のような、憲法第九条によって禁じられた『武力の行使』に及ぶということはないものと考えております」と答弁している(09年6月4日参院外交防衛委員会における横畠裕介内閣法制局第2部長答弁)。


 8、武力攻撃に至らない侵害への対応


 一般国際法上、自衛権を行使するための要件は、国家または国民に対する「急迫不正の侵害」があることなどとされているが、わが国の国会答弁においては、「わが国に対する急迫不正の侵害」があった場合は、「武力攻撃」、すなわち、「一般に、わが国に対する組織的計画的な武力の行使」があった場合として極めて限定的に説明されている。また、自衛隊法等の現行国内法上、自衛権の発動としての武力を行使できる「防衛出動」は、「武力攻撃」、すなわちわが国に対する組織的計画的な武力の行使を前提としている。

 このことから、「武力攻撃」に至らない侵害への対応は、自衛権の行使ではなく、警察比例の原則に従う「警察権」の行使にとどまることとなる。しかし、事態発生に際し「組織的計画的な武力の行使」かどうか判別がつかない場合において、突発的な状況が生起したり、急激に事態が推移することも否定できない。「組織的計画的な武力の行使」かどうか判別がつかない侵害であっても、そのような侵害を排除する自衛隊の必要最小限度の行動は憲法上容認されるべきである。

 かかる自衛隊の行動は、その事態、態様により、国際法上は、自衛権に包含される活動として区分される場合もあれば、国際法の許容する法執行活動等として区分されることもあり得るが、いずれにせよ、国際法上合法な行為である限り許容されるべきである。

 警察権の行使である自衛隊の行動類型としては、治安出動、警護出動、海上警備行動などがあり、また武器等防護という武器使用権限もあるが、治安出動のほか、警察権の行使としての自衛隊の行動による対処に当たり、事態認定や命令を出すための手続きを経る間に、状況によっては対処に事実上の間隙かんげきが生じ得る可能性があり、結果として事態の収拾が困難となったり、相手を抑止できなくなったりするおそれがある。

 また、対処に先立って自衛隊部隊を行動させるためには、治安出動下令前の情報収集(自衛隊法第79条の2)や防御施設構築措置(同法第77条の2)等の規定によるが、それぞれ「治安出動命令が発せられることおよび不法行為が行われることの予測」と「防衛出動命令が発せられることの予測」を下令要件とし、実際の下令までの手続き面で高い敷居が存在する。

 したがって、現行の自衛隊法の規定では、平素の段階からそれぞれの行動や防衛出動に至る間において権限上の、あるいは時間的な隙間が生じ得る可能性があり、結果として事態収拾が困難となるおそれがある。自衛隊法に切れ目のない対応を講ずるための包括的な措置を講ずる必要がある。

 問題となる事例としては次のようなものがある。例えば、わが国領海で潜没航行する外国潜水艦が退去の要求に応じず徘徊を継続する場合への対応に際しては、一義的には海上警備行動による対応となるが、現行の国内法上は「武力攻撃事態」と認定されない段階では、「武力の行使」はもとより、それに至らない武器の使用による当該潜水艦の強制退去は困難である。

 したがって、軍艦または政府公船である外国船舶を停止させるための武器使用がどの程度認められるかについて、国際法の基準に照らし、警察官職務執行法の範囲にとらわれず、国内法における検討を進めていく必要がある。

 また、国境の離島等に対して特殊部隊等の不意急襲的な上陸があった場合、仮に警察権の行使により対応する場合においても、自衛隊には平素からの同権限が認められているわけではなく、ましてや「武力攻撃事態」と認定されない段階では、防衛出動下での対応はできない。いったん離島が攻撃を受ければ、その攻撃の排除には相当の規模の部隊と期間が必要となる。

 同様に、原子力発電所等の重要施設の防護を例にとってみても、テロリスト・武装工作員等による警察力を超える襲撃・破壊行動が生起した場合は、治安出動の下令を待って初めて自衛隊が対応することにならざるを得ない。警察力を超える襲撃・破壊行動によるわが方の犠牲を最小限に抑えるためには、早い段階から速やかに自衛隊に十分な活動をさせることが有効だが、治安出動の発令手続きを経る間に、仮にも対応の時機を失するようなこととなれば、テロ、サボタージュ行為が拡大するなどして、その影響は甚大なものとなる可能性がある。

 上記の例にもみられるように、武力攻撃に至らない侵害への対応について、現代の国際社会では、その必要性が高まってきており、各種の事態に応じた均衡のとれた実力の行使も含む切れ目のない対応を可能とする法制度について、国際法上許容される範囲で、その中で充実させていく必要がある。また、法整備にとどまらず、それに基づく自衛隊の運用や訓練も整備していかなければならない。

 なお、武力攻撃に至らない侵害に対して措置を取る権利を「マイナー自衛権」と呼ぶ向きもあるが、この言葉は国際法上必ずしも確立したものではなく、また、国連憲章第51条の自衛権の観念を拡張させているとの批判を内外から招きかねないので、使用しないことが望ましい。


 Ⅲ、国内法制の在り方


 以上述べたような新たな考え方が実際に意味を持つためには、それに応じた国内法の整備等を行うことが不可欠になる。ここではその際に考えるべき主な要素につき述べたい。

 国内法の整備に当たっては、まず、集団的自衛権の行使、軍事的措置を伴う国連の集団安全保障措置への参加、一層積極的なPKOへの貢献を憲法に従って可能とするように整備しなければならない。

 また、いかなる事態においても切れ目のない対応が確保されることと合わせ、文民統制の確保を含めた手続き面での適正さが十分に確保されると同時に、事態の態様に応じ手続きに軽重を設け、特に行動を迅速に命令すべき事態にも十分に対応できるようにする必要がある。


 このため、自衛隊の行動を定めている自衛隊法や事態対処に係る基本事項を定めた「武力攻撃事態等におけるわが国の平和と独立ならびに国および国民の安全の確保に関する法律」(武力攻撃事態法)および関連の法制である周辺事態法、「周辺事態に際して実施する船舶検査活動に関する法律」(船舶検査活動法)、「武力攻撃事態における捕虜等の取り扱いに関する法律」(捕虜取り扱い法)、PKO協力法等について、自衛隊の活動等に係る各種特別措置法の規定ぶりや、現在の安全保障環境の実態、国連における標準に倣った所要に合わせ、広く検討しなければならない。

 自衛隊法については、任務や行動、権限等の整備が考えられる。

 自衛隊法は、安全保障環境の変化に伴うさまざまな事態に対応するため、そのたびに制度の見直しが図られてきたところではあるが、手続き面での適正さを確保しつつ、これまで以上により迅速かつ十分な対応を可能とするための制度的な余地がないか再検討する必要がある。

 また、行動が命ぜられていない時点でも、現場の自衛官がどのような対応をすることが認められるかという観点からの検討も必要である。PKO等への参加に際して新たにどのような任務が付与されるべきかとともに、これを安全かつ確実に遂行するため、従来の「いわば自己保存のための自然権的権利」等としての武器使用権限をどのように見直すかについても、先進民主国家の軍やPKOミッション等において一般に行われているようなケースを踏まえて、他国のROE(rules of engagement)に相当する「部隊行動基準」の整備により、文民統制の確保を図りつつ、国際法上許容される「部隊防護(unit self―defense)」や任務遂行のための武器使用に係る権限を包括的に付与することができないか、検討を行う必要がある。

 PKO協力法も「主たる」紛争当事者間の合意に基づく活動の実施、停戦合意要件の見直し、PKOの武器使用基準に基づく武器の使用といった国連における標準に倣った所要の改正を行うべきである。

 周辺事態法についても、周辺事態に際して米軍はもとより米軍以外の他国軍も対処することが十分に考えられることから、後方地域における対米軍支援に限定することなく、このような他国軍をも対象として、より広い地域において必要な支援を提供できるよう検討する必要がある。

 また、米国とオーストラリアとしか締結していない物品役務相互提供協定(ACSA)をその他の国とも締結するなど、必要な国際約束の締結についても併せて検討の対象とすべきである。


 Ⅳ、おわりに


 日本国憲法は、前文で「平和的生存権」を確認し、第13条で「生命、自由および幸福追求に対する国民の権利」を定めているが、これらの権利は他の基本的人権の根幹と言うべきものであり、これらを守るためには、主権者である国民の生存の確保、そして主権者である国民を守る国家の存立が前提条件である。

 また、憲法は、国際協調主義を掲げている。平和は国民の希求するところであり、国際協調主義を前提とした日本国憲法の平和主義は、今後ともこれを堅持していくべきである。その際、主権者である国民の生存、国家の存立を危機に陥れることは、そのような憲法上の観点からしてもあってはならない。

 わが国を取り巻く安全保障環境は、技術の進歩や国境を超える脅威の拡大、国家間のパワーバランスの変化等によって、より一層厳しさを増している。また、日米同盟の深化や地域の安全保障協力枠組みの広がり、国際社会全体による対応が必要な事例の増大により、わが国が幅広い分野で一層の役割を担うことが必要となっている。

 このように、安全保障環境が顕著な規模と速度で変化している中で、わが国は、わが国の平和と安全を維持し、地域・国際社会の平和と安定を実現していく上で、従来の憲法解釈では十分対応できない状況に立ち至っている。

 憲法第9条の解釈は長年にわたる議論の積み重ねによって確立したものであって、その変更は許されず、変更する必要があるならば、憲法改正による必要があるという意見もある。しかし、本懇談会による憲法解釈の整理は、憲法の規定の文理解釈として導き出されるものである。

 すなわち、憲法第9条は、第1項で、わが国が当事国である国際紛争の解決のために武力による威嚇または武力の行使を行うことを禁止したものと解すべきであり、自衛のための武力の行使は禁じられておらず、国際法上合法な活動への憲法上の制約はないと解すべきである。同条第2項は、「前項の目的を達成するため」戦力を保持しないと定めたものと解すべきであり、自衛やいわゆる国際貢献のための実力の保持は禁止されていないと解すべきである。

 「(自衛のための)措置は、必要最小限度の範囲にとどまるべき」であるというこれまでの政府の憲法解釈に立ったとしても、「必要最小限度」の中に個別的自衛権は含まれるが集団的自衛権は含まれないとしてきた政府の憲法解釈は、「必要最小限度」について抽象的な法理だけで形式的に線を引こうとした点で適当ではなく、「必要最小限度」の中に集団的自衛権の行使も含まれると解すべきである。

 個別的自衛権の行使に関する見解としては、自衛権発動の3要件を満たす限り行使に制限はないが、その実際の行使に当たっては、その必要性と均衡性を慎重かつ迅速に判断して、決定しなければならない。

 集団的自衛権については、わが国と密接な関係にある外国に対して武力攻撃が行われ、その事態がわが国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるときには、わが国が直接攻撃されていない場合でも、その国の明示の要請または同意を得て、必要最小限の実力を行使してこの攻撃の排除に参加し、国際の平和および安全の維持・回復に貢献することができることとすべきである。

 そのような場合に該当するかについては、わが国への直接攻撃に結びつく蓋然性が高いか、日米同盟の信頼が著しく傷つきその抑止力が大きく損なわれ得るか、国際秩序そのものが大きく揺らぎ得るか、国民の生命や権利が著しく害されるか、その他わが国への深刻な影響がおよび得るかといった諸点を政府が総合的に勘案しつつ、責任を持って判断すべきである。実際の行使に当たって第三国の領域を通過する場合には、わが国の方針としてその国の同意を得るものとすべきである。

 集団的自衛権を実際に行使するには、事前または事後の国会承認を必要とすべきである。行使については、内閣総理大臣の主導の下、国家安全保障会議の議を経るべきであり、内閣として閣議決定により意思決定する必要があるが、集団的自衛権は権利であって義務ではないため、政策的判断の結果、行使しないことがあるのは当然である。

 軍事的措置を伴う国連の集団安全保障措置への参加については、わが国が当事国である国際紛争を解決する手段としての「武力の行使」には当たらず、憲法上の制約はないと解すべきである。参加に関しては、個々の場合について総合的に検討して、慎重に判断すべきことは当然であり、軍事力を用いた強制措置を伴う国連の集団安全保障措置への参加に当たっては、事前または事後に国会の承認を得るものとすべきである。

 いわゆる「武力の行使との一体化」論は、安全保障上の実務に大きな支障となってきており、このような考えはもはやとらず、政策的妥当性の問題と位置付けるべきである。PKO等や在外自国民の保護・救出、国際的な治安協力については、憲法第9条の禁ずる「武力の行使」には当たらず、このような活動における駆け付け警護や妨害排除に際しての武器使用に憲法上の制約はないと解すべきである。


 このほか、武力攻撃に至らない侵害への対応については、「組織的計画的な武力の行使」かどうか判別がつかない侵害であっても、そのような侵害を排除する自衛隊の必要最小限度の国際法上合法な行動は憲法上容認されるべきである。

 また、自衛隊の行動については、平素の段階からそれぞれの行動や防衛出動に至る間において、権限上の、あるいは時間的な隙間が生じ得る可能性があることから、切れ目のない対応を講ずるための包括的な措置を講ずる必要がある。以上述べたような考え方が実際に意味を持つためには、それに応じた国内法の整備等を行うことが不可欠である。

 さかのぼってみれば、そもそも憲法には個別的自衛権や集団的自衛権についての明文の規定はなく、個別的自衛権の行使についても、わが国政府は憲法改正ではなく憲法解釈を整理することによって、認められるとした経緯がある。

 こうした経緯に鑑みれば、必要最小限度の範囲の自衛権の行使には個別的自衛権に加えて集団的自衛権の行使が認められるという判断も、政府が適切な形で新しい解釈を明らかにすることによって可能であり、憲法改正が必要だという指摘は当たらない。また、国連の集団安全保障措置等へのわが国の参加についても同様に、政府が適切な形で新しい解釈を明らかにすることによって可能である。


 以上が、「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」としての提言である。

 政府が安全保障の法的基盤の再構築に関して、この提言をどのように踏まえ、どのような具体的な措置を採るのか、それは政府の判断に委ねられるのは言うまでもないが、懇談会としては、政府が本報告書を真剣に検討し、しかるべき立法措置に進まれることを強く期待するものである。



(※注 読みやすくするため、こちらで段落を一部変更しています。)

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