えーと、どこまでお話しましたっけ?
あ、管理教育からですね・・・
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琉球大学は、これまであった首里キャンパスを離れて、教養学部、農学部から移転を始めたのは1981年。私が入学した年である。
1年生後期の教養教科も、移転した西原町千原のキャンパス(千原キャンパス)で行われるようになった。
当時、高校の同級生数人で那覇市繁多川で1軒屋を借りて共同生活をしていたが、さすがに那覇市から通うのは大変だということで、授業の合間を見ながら、物件を探し回っていた。
本土復帰9年目の沖縄は、まだ、ヤマトンチューへの風当たりが何かと強く、特に学生には、「親の金で遊びに来たんかい!」と言われることもあった。
自炊が苦手な私は、できれば千原キャンパスの学生寮に入りたかったが、入寮基準を満たしていなく、しばらくの間、アパートを借りた。西原町と宜野湾市の境界付近にアパートがあった。
首里キャンパスから千原キャンパスへ順調に移転が進む中、ちょっと気がかりなことがあった。
それは、首里キャンパスにあった部活動用の部室が、千原キャンパスにはできない、ということだった。
筑波大学で手腕を発揮した学生部長が琉球大学にやってきて、これまでの自由奔放な部活動・学生活動を徹底的に取り締まるということだった。
これでは練習後の泡盛が飲めない!ってことで、運動部だけではなく、文化部も立ち上がった。 学生部当局との交渉には、学生自治会、いわゆる革マル派の幹部が動いた。
運動部・文化部合同の抗議行動が何度となく行われ、剣道部も参加した。
交渉の結果、部活動用の部室はプレハブを建てることで確保できたが、夜の活動制限及び飲酒禁止が条件に盛り込まれることとなった。
琉球大学では起きなかったが、他大学で一気飲みによる死亡事故が起きていたこともあり、学内での飲酒は、当時の文部省からの指示でもあった。
これに反発したある運動部が酒盛りをしたところ、すべての部室がつかえなくなった。見せしめである。
首里キャンパスの頃から、学生同士で決めていた暗黙の了解は、管理教育の名の下、敏腕学生部長によって取り消され、「規則」でがんじがらめにされた。すべては、まだくすぶり続けていた学生運動家の活動を抑えこむための手段でもあったのだが。
ま、それでも私たち学生は、知恵を出し合ってあっちこっちで酒盛りを開いてはいた。以前のようなハチャメチャなエネルギーは消失してしまったが。
学内での抗議行動と同時進行に、私の住む場所も決まった。民間の寮である。
宜野湾市我如古(ガネコ)。
千原キャンパスにも近く、国道から少し入ったところに「大成寮」があった。入寮したのは、大学2年の終わり頃だったのだろうか。
九州からやってきた学生がほとんどで、宮崎県出身者も多かった。
建物は古く、もちろん、バスタブなどはない。シャワールームがあるだけである。沖縄らしいといえばそうだが、沖縄にいた4年間でバスタブにゆっくりつかったことは、ほぼなかった。
それと、普天間基地にも近かった。
当時、寮の回りには高いビルはなく、直線距離にしておよそ2Km先に、離着陸を繰り返すヘリの姿などを確認することができた。
ほぼ毎朝、ヘリの音で目が覚めた・・・(つづく)
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