「ヤマトンチューの学生が子どもを殺した」
大学は学園祭で授業はなかった。当然、剣道部の九州遠征も取りやめとなった。
後輩と後輩のお父さんと大学の学生部に出かけたり、毎日のように男の子の自宅に出向き、玄関の外で土下座をした。
許されることではない。
私は、男の子だけではなく、そのご家族の人生ばかりか、後輩の人生、後輩のご家族の生活までも壊してしまった。
学生部からは、特に謹慎するようにとの指示はなかったが、学科にも顔を出さず、寮の仲間とも顔を合わさないように、自室にこもっていた。
自殺を考えていた。
その当時の琉球大学の学園祭は、11月下旬から12月上旬の期間に行われ、それが終わると冬休みに突入という形だ。
大学に顔を出さないことを心配した同級生や、退部した剣道部の仲間が部屋へやってきたが、誰とも会わなかった。会ったとしても、何を話して良いのか、分からなかった。
私のことを心配した両親からも電話が何度となく入ったが、「元気です」ということぐらいで電話を切った。
今で言えば、「うつ状態」「うつ病」になっていたのかもしれない。
でも、一番つらいのは、男の子のご家族と後輩である。
私が罪に問われることはなかったが、私のミスで男の子を死なせ、後輩の人生を滅茶苦茶にしてしまったのは、事実である。
もう私は、夢であった教師にはなれないと思っていた。
どうやって私が立ち直ったのか、今となってははっきりとは覚えていない。
何がきっかけで立ち直ったのか。
いや、周囲には立ち直ったと見せかけ、本当はずっと尾を引いていたのか。
この件を境にして、確かに、人間関係をうまく構築できなくなっていた。いわゆる「対人恐怖」が強くなっていった。自分の心の歯車も狂い始めた。
私の言動によって、周囲の人に迷惑をかけたり、傷つけたりしていないだろうか。
そのことばかりを気にしながら生きているように思う。
とにかく、人が怖くなった。
今でもそうである。
2回も結婚に失敗したのも、そういった人間関係をうまく構築することができなくなったことに原因があったのかもしれない。
大学卒業後、教員になっても、結婚をしても、この件は誰にも話して来なかった。
結婚する際に、このことを打ち明ければどんなにすっきりすることかとは思ったが、逆に、嫌われるのではないかという意識が働いた。
ただ、その当時に分かっていたことは、「これからの人生、他人のために尽くして生きていくこと」であった。
果たして今の自分はそのことができているのだろうか。
周囲の迷惑になっているのではないだろうか。
今でも自問自答している。(つづく)
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