巷では、1997年6月に起きた神戸連続児童殺傷事件、加害者少年Aの手記『絶歌』が話題になっているようですが、私は買いませんし、読みません。
手記を書いたことで、それが遺族への謝罪になっていませんし、少年Aの犯罪心理を知りたくもないですね。
どちらかと言うと、これはビジネスでしょ、出版業界の。
一時期、若者の活字離れが進み、書籍の売り上げが落ち込んでいた時期もありましたが、新たなる脅威「電子書籍」の登場で、書籍のペーパレス化が進む中、書籍の重みを感じなくなってきました。私だけかも知れませんが。
その国の文化レベルは「紙の消費で決まる」、というようなことを書籍で読んだことがあります。
ある近未来の映画でも、1冊の紙媒体の書籍を巡るドラマが展開されていましたね。
それほど、紙媒体の書籍には、何か特別のモノがありました。いや、私もずーっと感じていました。
子どものころ、父親から、「新聞を足で踏んで歩くな」「書籍をまたいで歩くな」「書籍を枕にするな」などと怒られてきましたね。
そのせいか、今でも父の教えはきちんと守っています。
時代が変わってきたのかもしれませんが、今の紙媒体の書籍には、そのような「オーラ」を感じません。魅力的な書籍は確かに減ってきました。
なんか、今の書籍には「誰でも気軽に出版できる」というイメージがあり、昔のような重みや書籍のありがたさを感じなくなりました。
そのような状況下での『絶歌』には、何の興味も関心も覚えません。
どちらかと言うと、怒りを覚えるほうですね。
しかも、少年Aはすでに少年ではなく、32歳の成人男性。
少年としてではなく、大人として自分が起こした事件に正面から向かい合い、真摯に遺族の皆さんに対して謝罪するのであれば、「東慎一郎」として実名で書くべきです。
それがまったくない中で、少年Aのまんまで手記を書くことに何の意味があるのでしょうか?
これからも事件を背負って生きていかなければならない遺族の皆さんのことを、本当に考えているのでしょうか?
それとも、現在も、「少年A」のままなのでしょうか?
この『絶歌』を評価する有名人、芸能人、有識者等がいるとすれば、少年Aと何ら変わりのない可哀想な人間でしょう。
これは、単なるビジネス。
書籍を購入して欲しいだけのこと。
この『絶歌』によって、遺族の皆さんは新たに対応しなければ問題が増え、少しは癒やされてきたはずの心も、また、以前のような苦しみを味わうようなことになり兼ねえません。
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