「いじめ」「ネットいじめ」、なぜなくならないのか。
「ソーシャルゲーム」にハマり込む未成年者が多いのは、なぜか
。
よーく考えてみてください。
「大人社会にもいじめがある」。だから、大人社会におけるいじめをなくさなければ、子どものいじめはなくならないとする考え方があり、もっともだと思われるかも知れませんが、それは、大人の勝手な都合の良い考え方でしかありません。
そもそも子ども社会の「いじめ」と大人社会の「いじめ」を同列に考えることが間違い。
じゃ、どうすれば良いのか?
子どもたちに「逃げ道」をつくってあげてください。今の状況から一時的にエスケープできるような場を。
いわゆる「現実逃避」ではありませんが、それを「ゲーム」に求める子どもは少なくありません。
今夜のNHKのクロ現で、130万円をゲームにつぎ込んだ馬鹿な成人はほっとくとしても、学校という狭い空間の中で、どうしてもいじめグループと接する場面が出てくる。「彼らが学校にいる」ということだけで脅威を感じる中、インターネットのゲームの世界は、誰も知らない者ばかり。その世界にやすらぎや喜びを求めることは、子どもにとって、至極当然なのかも知れない。
ただ、ゲームの世界に「現実逃避」することは良い状態ではない。
だから、ゲームの世界以外に、子どもたちが「逃げ込むことができる場所」を設ける必要があるでしょう。
大人には「居酒屋」という息抜きの場がある。
子どもには「ゲーム」を与えておけば良いとする安易な考え方ではなく、自分たちがコドモダッタコロを考えれば、答えは出てくるはず。
私たちが子どものころは、「山学校」を良くしていた。そのころにも「いじめグループ」はいたが、彼らから逃れるために、わざわざ遠回りをしてちょっとした山に逃げ込み、ボーッと過ごしていた。寝転がって空を見ていた。
たまに、山の持ち主のじーちゃんと話をしたり、柿やみかんをもらったりもした。なんか、そういった時間を過ごせたことがうれしく、じーちゃんと話をするうちに、「明日もがんばろう!」と思ったものである。
今は「山学校」する場所も環境もないが、学校・家庭といういつもの場所を離れて、あれこれと考えたり、知らない大人と話をしたりと、世間から見れば「無駄な時間」に見えることこそ、大切なのかも知れません。
心のゆとり、というものでしょうか?
そのむかし、「飽食の時代」と言われましたが、食だけではなく、モノや情報も溢れ、その中でアップアップしながら生きている。
果たして、それで良いのでしょうか?
社会が、「いじめをなくそう」と取り組めば取り組むほど、逆にこれからも「いじめ」はなくなることはないのではないでしょうか。
私を始めとする大人たちは、これからの日本を生きていく子どもたちに、何を求め、何をしてあげなければならないのか。
そこをもう少し考えなければならないでしょう。
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